「おもてなし」といえば茶道だと茶道関係者が考えたのは、茶道が説く「利休七則」が茶道から「おもてなし」などとして評価されているからであろうか。
ここであらためて利休七則を考えてみたい。なお、ここで紹介する利休七則の本文は、順序を含めて、角川茶道大事典に「利休七則」で紹介されている東京芸大所蔵「利休七箇条」にしたがうことする。
利休七箇条では、冒頭に「花は野の花のやうに」が掲げられている。
この言葉は何を意図しているのだろうか。
「やうに」とは、このようにしなさいということであろう。小学生に戻ったつもりで先生から、「○○さんを見習いなさい」といった注意を受けたとしよう。その時に私たちが考えるべきことは何であろうか?
先生の注意は、私が騒いでいたのならば、○○さんを見習って静かにしていなさい、ということであろう。このように私たちは、何を見習うべきかを状況に応じて選択しなければいけないのである。
「野の花」といっているから、茶席に野に咲く花を摘んできて、そのまま床の間に置けば、「野の花ですね合格」ということになれば苦労はない。
「花は野の花のやうに」が、前提としている文脈は、茶席でのもてなしである。床の間に入れる花に対してどのような配慮をすればよいかということを、くみ取っていく必要がある。
くみ取り方を具体的に考えてみよう。
摘んだ野の花を折り曲げたり、形を作ったりして技巧的に好みの形にして花入に入れればよいのだろうか。
野の花にはそれぞれに良い表情、姿がある。
ある花はすっとまっすぐ伸びて、ある花は垂れ下がるように咲いている。上を向いている花もあれば、下向きの花もある。
上向きに咲く花をたわめすぎて、下や横を向けたり、下に垂れる花を逆に上に向けてしまったら、自然の姿を生かしていないということにならないだろうか。
また、花の開き加減に注目してみよう。
野にある花は固いつぼみや少しふくらあみかけたこれから開こうとするものもある。かと思うと満開をすぎ、これからはしぼんだり、花弁が落ちていくだけのある意味で見所を過ぎた花も咲いている。季節によっては葉がやけたり霜で色がかわったり風に吹かれて切れているのもあるだろう。それらすべてをそのまま「野の花のやう」にと受け入れ、床の間に置けと利休は言っているのだろうか。床に置く花は、いわば亭主の客へのもてなしの気持ちがこもったものと考えられる。さかりをすぎた花や、いつから咲いていたとも知れない花などはもてなしにふさわしくないのではないか。満開の花も美しいが、これから先の楽しみはない。これから咲く美しい花の姿を想像できるような花を届けたい、その美しさを見せたいといっているのではないだろうか。
それぞれの姿を生かすように、よりよい姿を見いだして花入に移せというのが、「野の花のように」という命題で、花の姿の調え方は、花入に野の花の持つ美しさとは何かを考えさせ人為的にではなく、理想の姿を見いだして花入に移して再現させることを求めている教えなのである。
「花は野の花のやうに」という課題に対して、茶人が取り組んだ結果が、茶花とよばれる茶席の花の姿である。
私たちが課題に取り組む際に、私たちは、課題として明示化されていなくても、その課題がもとめている条件・結果等を文脈から補い、その上でその課題の本質に対応したアイデアを探っていくことが求められている。
その過程では、「○○の本質とは何か?」という問いかけを、対象に応じて、「○○において、一番大切なことは何だろう?」、「何が欠けたら○○ではなくなってしまうだろうか?」等の問いかけから導いていくことが必要になってくる。
茶花に限らず、われわれが取り組む問題にはすでに先人の答えらしきものが残されていることが多い。それらを参照にすることが問題の解決に役立つことも多いことも事実である。しかし、花が一つとして同じものがないように、実社会の問題も一つとして同じものは存在しない。
出来合いの答えをそのまま当てはめて自分の答えとして良いのか?
問題に直に向きかって、その本質をつかむという作業の必要性が、あることを説いているのではないだろうか。
このように考えると「花は野の花のやうに」との教えは、教育的な配慮に富んでおり、そして、「本質を意識して課題に取り組め」との教えと受け止めることで応用範囲の広いものになる。
著者紹介:田中仙堂
公益財団法人三徳庵 理事長/大日本茶道学会 会長。
著書に『近代茶道の歴史社会学』(思文閣出版社)、『茶の湯名言集』(角川ソフィア文庫)、『岡倉天心「茶の本」を読む』(講談社)、共編緒に『講座 日本茶の湯全史 第三巻 近代』(思閣出版)、『秀吉の智略「北野大茶湯」大検証』(共著淡交社)、『茶道文化論 茶道学大系 第一巻』(淡交社)、『お茶と権力 信長・利休・秀吉』(文春新書)など多数。