「刻限は早めに」という言葉を聞くと現代人ならば、「時間に余裕をもって行動しなさい」という意味で理解する。いつも遅刻気味の人には、時間厳守の注意に聞こえるかもしれない。しかし、さらに意識の高い人は、時間に余裕を持つことで、自分の心に余裕をもつことができると解釈しているようだ。
いずれも、客側の自分に対する配慮として解釈しているわけである。しかし、亭主側の配慮はどうなのであろう。
そのように立ち止まってみると、「花は野の花のやうに」、「炭は湯の沸くやうに」、「夏は涼しく」、「冬を暖かに」までは、亭主側の準備に対する注意として受け止めていたのが、「刻限は早めに」になって、「約束の時刻には早く到着するように」と解釈されて客側の配慮として受け止められていることに気が付くであろう。
後に紹介する二項目も亭主側の準備に対する注意なので、これも亭主側への注意だとして解釈できないわけもない。すると、お客様をお迎えすると約束した時間よりも、早めに準備を整えておくようにということになる。
しかし、「刻限」は、客の方がしっかり意識しておく事項であることからして、この項目だけは主に客側への注意としてうけとめてしかるべきだと思う。
「刻限は早めに」とは、客側の亭主への配慮を含んだ言葉である。茶の湯の準備で、亭主が心を砕いてきたことはなんであったのか。湯加減、すなわち炭の火の起こり方が最適な時刻に客を迎え入れるようにすることであることが、「炭は湯の沸くように」から、「夏は涼しく」、「冬を暖かに」で示唆されている。この亭主側の状況を踏まえて、客に「刻限は早めに」と注意が喚起されているのである。
茶の湯では、時刻を指定した案内がなされる。その時刻に茶席に案内をしたという亭主の予定でもある。訪問するといきなり茶室に入るのではなく寄付きに通される。ここで身支度をととのえ、客が集まり白湯を飲み心を鎮める時間があるから、その時間を見込んで、訪問先には、刻限より早めに着くことが求められる。
約束した時間に亭主は、炭火がよい状態になる様に準備をしている。遅く到着すると炭火を再度調整する必要が出てくる。だから、客には亭主の準備を無にしないために、早く着いても決して遅れないように心がけたのであろう。また、早めについても、寄付きでしばらく待つ覚悟をすれば、良いという事情もそれに加わってくる。
しかし、早ければよいというものでもない。亭主の支度が出来ていないほど早い時刻については、客も亭主の迷惑になることは十分承知である。そこで、亭主の用意ができていることを客に知らせる工夫されている。外に水が打たれ、玄関の戸が手掛かりだけあけられていたら、準備が整ったという合図である。
「刻限は早めに」という言葉は、「亭主の配慮を十分に受け止められるようにするように」という注意として受け止めることが可能になってくるのではないだろうか。
また、茶の湯での状況を述べたのは、時間よりも早く到着することが、適切な場合と不適切な場合とを見分ける必要があるからである。
「フランスでは、約束の時間より少し遅れていくように注意されたのに、茶の湯ではなぜ早くなのでしょうか」という疑問が出されたりするからだ。
パリのアパルトマンを想像してみてほしい、玄関でチャイムを鳴らしてドアを開けたら、食卓のテーブルが目に入るような状況では、テーブルセッチングがまだの時に客が出現するのは、大いなる迷惑になるから、もしも、定刻にホスト側の準備が間に合っていなくてもホストが慌てないように客が配慮したわけである。
洋の東西で、客に対して到着時間の注意が促されるのは、招いてくれた側への配慮を忘れないようにということが第一である。早く着いた方がよいかどうかは、招いてくれた側の受け入れ状況によって、変わっていることに注意すべきであろう。
もしも、シャトーにすんでいるようなフランス人から招待されたとしたら、私なら「刻限は早めに」で行動する。お城の門前に定刻に到着したのでは、ホストが待つ場所へと移動する間にすっかり遅刻になってしまうではないか。
格言を生かすには、それを生み出した状況を理解し、自分が置かれた現状に当てはめる想像力が常に求められているのである。
著者紹介:田中仙堂
公益財団法人三徳庵 理事長/大日本茶道学会 会長。
著書に『近代茶道の歴史社会学』(思文閣出版社)、『茶の湯名言集』(角川ソフィア文庫)、『岡倉天心「茶の本」を読む』(講談社)、共編緒に『講座 日本茶の湯全史 第三巻 近代』(思閣出版)、『秀吉の智略「北野大茶湯」大検証』(共著淡交社)、『茶道文化論 茶道学大系 第一巻』(淡交社)、『お茶と権力 信長・利休・秀吉』(文春新書)など多数。