和道場

降らずとも雨の用意

 出先で、急に雨が降ってきて、傘を忘れたことに気がついた時、「降らずとも雨の用意」という言葉を反省とともに思い出す。しかし、茶の湯の文脈で考えれば、この注意は主に亭主側に対して向けられたものであろう。

 露地への出入りを不可避的にともなうことを考えれば、茶の湯は、屋外イベントでもある。茶席に入ってから懐石を済ませて、一度、露地に出て(中立)、再び茶席に戻って濃茶・薄茶と進む。茶の湯が始まる時は晴れていても、途中から雨になった時の対応も不可欠になる。露地下駄、露地笠等、雨仕様の準備も怠らないようにということが、「降らずとも雨の用意」に相当する。

 「降らずとも」という表現にも注目しよう。「降らずと思えども」ではなく「降らずとも」となっている。つまり、「降らないと思っていても」でなくて、「降らなくても」ということである。「降らないと思っていても」といえば、「雨が降るかもしれないが、多分大丈夫だろう」と雨が降りそうなことを少しは予測しているニュアンスが出てくる。一方、「降らなくても」となると、連日晴天が続いて、降るとは予想しえない時でも、いつでも、とより厳しい要求であることに気が付かされる。

 このことの意味を考えておこう。

 常にカバンに小型の折り畳み傘を忍ばせている人がいる。荷物が増えるから、出先で降りそうなときだけ持っていけばよいだろうと考えたくなるのが通常であろう。しかし、その人曰く、荷物が増えることよりも、毎回今日は傘を持参しようとしまいかと考える方が面倒であるという。

 一見怠け者風の答えであるが、近年の脳科学的な研究成果からも合理性は説明できそうだ。人間が、一日につかえる意志力には限界があるといわれている。意志力は、あることを行うか行わないか等の判断を行うたびに減っていく。だから、物事を習慣化して、いちいちそれを行うか行わないかを考えないことがものごとを長く続けることであるなどと説かれている。

 その立場に立てば、毎回、今日は「雨の用意をすべきかどうか」と考えることで意志の力を使うことなく、より重要な判断に意志の力を振り向けることができると解釈することも出来そうだ。

 気象庁は、降水量1mm以上の日を降水日として記録している。これを雨の日とすれば、東京では、年間の三分の一が雨になる。三分の一は、雨の日になるならば、雨の用意をしておきなさい、は、よくある起こりそうなことへの備えといった方が良いのだろうか。

 いや、われわれが、「不測の事態」とか、「予期せぬ出来事」と言った場合、単純に確率が低いとか高いではなく、起こって欲しくない良くないことが起こってしまったという心理的な意味合いも加味されていることに注意しよう。

 その意味での茶の湯の「不測の事態」をへの備えは、雨への備えに限らない。

 炭が起こらず湯の煮えが悪いという状態は、もっとも避けたい事態なので、それが、「炭は湯の沸くやうに」と特記されていたと考えられる。

 湯を汲む柄杓をあやまって、落としてしまうという場合もある。それにそなえて、替えの柄杓が水屋を用意しておいて、何かあれば替えとして持ち出せる準備をしている。

 不測の事態には、客の側の失敗も考えられる。その時に、亭主の側が、それをうまくカバーできれば、「大丈夫すよ」で済ますことができる。しかし、カバーできなかったらいつまでも客に気まずい思いをさせてしまうことになる。松平不昧は、「客の麁相は亭主の麁相」という言葉を残しているが、客側に起因する不測の事態にも備えておくようにという意味相も含まれていると考えるのがよさそうである。

 二度と同じことを繰り返すことができないのが茶の湯である。

 「降らずとも雨の用意」とは、「起こるかもしれないと分かったことには、その準備が無駄になっても備えておきなさい」という注意だと解すべきことになる。

 当たり前のようであるが、「あれは大丈夫か?」という懸念が起きた時に、「大丈夫だから準備する必要がない」と言いくるめるわれわれの判断の中には、知らない間にその準備を面倒に思い避けようとする傾向が混じりかねない。

 さまざまな大事故が、現場からの懸念を無視したことで起こったことを知る今、あたり前を今一度確認することが大切だろう。

著者紹介:田中仙堂

公益財団法人三徳庵 理事長/大日本茶道学会 会長。

著書に『近代茶道の歴史社会学』(思文閣出版社)、『茶の湯名言集』(角川ソフィア文庫)、『岡倉天心「茶の本」を読む』(講談社)、共編緒に『講座 日本茶の湯全史 第三巻 近代』(思閣出版)、『秀吉の智略「北野大茶湯」大検証』(共著淡交社)、『茶道文化論 茶道学大系 第一巻』(淡交社)、『お茶と権力 信長・利休・秀吉』(文春新書)など多数。