本対談では、2022年2月に出版した『お茶と権力 信長・利休・秀吉』(発行元:文春新書、価格:935円)」をテーマに、その読みどころについて、両者の視点から語っていただきました。本対談は、前編、中編、後編の3篇に分けてお届けします。
田中仙堂プロファイル(写真:左)
1988年、円覚寺前管長より仙堂の号を享け、同年大日本茶道学会副会長、2017年1月に同会会長に就任。創始者田中仙樵、父仙翁会長の意を継いで、茶道文化が伝えてきた「わざ」と「こころ」の両輪に価値をおき、点前の実践に加えて、論考でも日本の伝統文化を紹介している。月刊「茶道の研究」を主宰。著書に『近代茶道の歴社会学』(思文閣出版社)、『茶の湯名言集』(角川ソフィア文庫)、『岡倉天心「茶の本」を読む』(講談社)、共編緒に『講座 日本茶の湯全史 第三巻 近代』(思閣出版)、『秀吉の智略「北野大茶湯」大検証』(共著淡交社)、『茶道文化論 茶道学大系 第一巻』(淡交社)など多数。
1958年、東京都生まれ。本名 田中秀隆(ひでたか)。東京大学文学部社会学科卒業後、東京大学社会学研究科博士課程単位取得(満期退学)。カナダ政府給付留学生としてケベック州ラバル大学大学院に留学。
前島編集長プロファイル(写真:右)
1969年、岐阜県生まれ。1992年、東京大学文学部社会学科卒業。同年、文藝春秋に入社。「週刊文春」、月刊誌「文藝春秋」、「諸君!」、「文藝春秋スペシャル」などの編集部を経て、現在、文春新書編集長。
本能寺の変は、お茶が引き起こした?
前島: 私が最も印象に残った章のひとつである「本能寺の変とお茶」にテーマを移したいと思います。光秀の行動とお茶にまつわる推理が、非常に面白い。
田中: ありがとうございます。本能寺の変に結び付くきっかけとして茶会をとらえました。出発点としては、茶道具の名物記である『山上宗二記』の一節に、信長が持っていたある名物道具が、本能寺の変で焼けたという記載があります。本能寺の変で焼けた道具があるのは、京都に安土から道具を持って行ったから焼けたということになるわけです。そうすると、一体何のために道具持ってきたのかという疑問が出ます。それは茶会のために持っていったのです。また、お茶会とお茶を飲むということの違いについてもすこしこだわっています。信長を京都で迎え入れた時、お茶を出したという記録があります。それにしたがって、信長は、公家たちに持ってきた名物道具を披露した茶会を行ったと説かれていました。私の立場からすると、これは茶会ではなく、迎えに来た人に対するお茶出しで、茶会ではないだろう。名物披露の茶会は実際には開かれていないと考えたのです。
前島: この本では、まさにその開かれなかった幻の茶会が重要なカギを握ります。
田中: そのあたりは、『お茶と権力 信長・利休・秀吉』でしっかりと読んでいただきたい部分です。逆説的にいえば、信長が光秀をお茶好きにしてしまったから、自分が仕留められてしまったと、そういうストーリーにしたわけです。
前島: この部分は非常に面白い。今後ドラマで、本能寺の変のとき家康をもてなすための茶会が計画されいていた、と描かれていたら、これは‘田中説’だなとなりますね。
田中: 宣教師の記録には、家康をもてなすための茶会だという記載があります。一方、宣教師の記録は誇張が多く、自分たちの宣伝が多いので、日本史のプロの人はそれをそのままに取らない人が多いのです。私は状況証拠からして、家康を茶会でもてなすというのは、ありえるのではないか思って結びつけたわけです。
秀吉は、お茶を利用して自分が信長の後継者であることをアピール
前島: 信長が、お茶をいかに権力の象徴として活用したか、そして、その後の人も受け継ごうとしたか。なかでもお茶を大いに活用したのは、秀吉ですよね。
田中: 秀吉は特に意識的にやっています。
前島: 光秀を討ったあと、秀吉が、信長の後は自分が受け継ぎますと言っても、すぐには納得しない人も少なくなかった。かなりいろんな手でアピールしないといけなかったのです。
田中: それは非常に重要な指摘です。本では強調し忘れましたが、秀吉は、黙っていれば、こいつが順番で信長の跡継ぎになるという立場ではありませんでした。後の歴史を知っている我々は、秀吉が天下を取るのが当たり前のように思うけども、実際は、かなり頑張って自分をアピールしないといけない立場だったのです。山崎の合戦で明智光秀を打ち取ったからといっても、それがすぐ天下人には結びつかないのです。その時は三男の信孝を総大将にしているわけですからね。そういう意味では、いかに自分が跡目を継ぐのに相応しいかをアピールする必要が秀吉にはあったわけです。そのときに、信長のやっていたお茶を利用して、自分がお茶で信長から特に目をかけられたっていうように主張することをはじめとして、お茶を利用していかに自分が信長の後継者にふさわしいかを知らしめることは、結果を知っている我々よりも、その時代の人にとってみると、重要なことだったと思います。
前島: 秀吉は、さまざまな点で信長のやり方を真似たという見方もありますが、今の田中さんの指摘でいうと、やっぱり真似る必要があったのですね。
田中: 要するに、真似て後継者であることをアピールしなければいけないということです。単に光秀を討っただけだと、まあサルも功績があったけれど、所詮あいつは、ということで低くみられる。よくやったなといわれて終わりということもあり得るわけです。
前島: だからこそ、必死で後継者アピールをしなければいけない。そこで、またお茶が出てきます。
田中: 例えば、「茶湯御政道」という言葉があります。従来の茶道史だと、信長時代のお茶は「茶湯御政道」というように長い間、紹介されてきたのですが、最近の竹本千鶴さんの研究によって、その「茶湯御政道」という言葉自体は、信長の葬儀に関連した秀吉の手紙の中で初めて出てくる。つまり、秀吉が、信長が死んだ後に作ったということが明らかになってきています。
前島: 「茶湯御政道」というのはどういうものですか?
田中: 茶の湯は禁止されていた、茶の湯は信長の許可がないとできないことだったということです。
前島: なるほど、「茶湯御政道」っていうのは、信長の茶の湯をめぐる政策という意味なのですか。
田中: そうですね、政策、あとはご禁制みたいなことですね。それを秀吉は、自分にだけ許されたとアピールするわけです。ところが、茶会の記録を見ていると、ちょっと嘘じゃないかと思う節もあります。秀吉よりも、下手すると光秀の方が先に茶会をやっているではないかと。でも、秀吉にしてみれば、光秀が死んでしまっていれば文句を付ける奴はいないから構わないくらいの気持ちだったのでしょう。
前島: それで秀吉が、信長は茶会を禁じていた、というストーリーを作ったのですか?
田中: 秀吉は信長の後を真似しているのですが、自分に都合よく修正しつつ真似しているというか、そういうしたたかなところがあります。
前島: それは面白いですね。秀吉がなぜ利休を重用したかというのも、今の文脈で説明されておられますよね。
田中: そうです。一つはやはり、信長の茶堂であった利休が、自分についている、つまり、信長の道具を今、手にしているのが自分であるから、信長の後継者にふさわしいという主張の流れで、お茶席の中でいえば、当然信長の茶堂として世話をしていた人がついてきてくれていると言える。これも、信長の後継者としてふさわしいのだという証拠になる。
前島: なるほど。この信長の茶堂が、俺を後継者として認めているという。やはり、お茶を、本当に政治のツールとして、駆使しているという感があります。
お茶から読みとく新しい秀吉像
田中: 秀吉というのは全くお茶ができない人だと、一般の人は思ってしまっているのではないかと思います。例えば、映画「利休」で山崎努が秀吉を演じた時でも、黄金の茶室で、点前するときには、秀吉は点前ができなくて、後ろで利休が次は何とかですというように手順を教えていました。一般のイメージとしては、秀吉は全く点前ができなくて、利休が助けてくれなければできなかったというイメージを反映していると思います。しかし、そうではないのです。茶会の運営もロジスティクスの側面があります。また、戦場を維持するのもロジスティクスです。そうすると、北野大茶湯とか、大きなところで茶会をやるということにしても、自分の家の狭い茶室でしかお茶をやっていない茶人からしたら大変なことですが、遠征して城攻めしている武将にとってみればそんなことは大したことはないと、そういうふうに見てやらないとかわいそうなのではないかと考えたのです。
前島: 面白いですね。先ほどの田中さんがおっしゃったパフォーマーとしての戦国武将というと、秀吉というパフォーマーからすると、北野大茶会も一つのパフォーマンスだった。また、秀吉は優秀なイベントプロデューサーということですね。
田中: そうですね。ある意味、城を攻めるときも、相手側にこれはもう勝てないと思わせるというパフォーマンスをする必要があるわけです。そう考えると、有名な小田原の一夜城にしても、要するに、一夜で城を作ってしまえることを見せつけたら、相手は、これはかなわないと思う、そういう大パフォーマンスを秀吉は四六時中やっているのです。
黄金の茶室は何のために作られたのか
前島: そうすると、これまで一般的には、黄金の茶室などは、いってみれば文化を解さない、秀吉の成金の発想だというようなイメージがあったと思いますが、お話を聞くと、全く違って見えてきます。
田中: 私も、最初はもちろん侘び寂びとか言われているので、黄金の茶室というのは秀吉の成金趣味なのではないだろうと思っていました。しかし、自分で研究するようになってくると、実は禁中の茶会は2回実施されていて、黄金の茶室が出てくるのは2度目の茶会なのです。一度目は、信長ゆかりの名物道具を一生懸命用意して、それなりに参加した公家たちを感動させようと努力したようです。そうすると、私の中で、2度目になぜ黄金の茶室を出してきたのかという疑問が涌いてきました。道具への反応をみると、どうやら2度目になって、ようやく公家が感心した記録が出てきます。その理由を考えてみると、武家伝奏と言われる信長の周囲と付き合っていた公家たちは、茶道具とか名物道具について知っているので分かるのですが、普段、武家との付き合いのない公家たちにとってみれば、何だこれはとなってしまう。ましてや、これは信長が持っていたとか足利将軍が持っていたと言われても、だからどうしたとなってしまう人たちです。そうすると、結局、さきほどの貨幣の問題と同じなのです。
前島: 公家たちは、信長といってもそやつの官位はどれ位なのか、と見下すようなところもあったわけですね。
田中: そこで、秀吉は、何をしたらこいつらに素晴らしいと思わせることができるかを考えた。そして、黄金で作ったら、公家たちもすごいものだとわかってくれるのではないかと考えたわけです。平泉の金色堂の頃から、金づくしの物には価値があるわけですから。
前島: ある意味、異文化へのアプローチですね。
田中: そうすると黄金の茶室が秀吉の成金趣味だと言うなら、黄金の茶室が出ないとすごいと思えなかった公家たちも成金ではないですかと、そう秀吉の肩を持ってやりたくなるわけです。
*後編(2022年5月9日掲載予定)につづく