投資家の小林賢治氏は、意外なことに文学部の大学院出身。それも美学専攻です。今回の対談では、芸術家像との向かい合い方、音楽と茶道の共通点を探ります。『お茶と権力』に光を当てるため、楽器も演奏され音楽美学を専攻された小林氏のお話と仙堂会長のバックグランドが重なる部分から対談は展開されます。そして、投資家としての姿勢へと対談は発展し、話は締めくくられます。本対談は、前編、中編、後編の3篇に分けてお届けするうちの後編です。
小林氏プロフィール
兵庫県加古川市出身。東京大学大学院人文社会系研究科美学藝術学にて「西洋音楽における演奏」を研究。在学中にオーケストラを創設し、自らもフルート奏者として活動。卒業後、株式会社コーポレイトディレクションに入社し経営コンサルティングに従事。その後、株式会社ディー・エヌ・エーに入社し、取締役・執行役員としてゲーム事業、海外展開、人事、経営企画・IRなど、事業部門からコーポレートまで幅広い領域を統括する。
朝倉祐介、村上誠典と共に、2017年7月にシニフィアン株式会社を設立。2019年に同社とみずほキャピタル株式会社をGPとする投資ファンド“THE FUND”を立ち上げ、新産業の創出に向けたグロース投資を行っている。
「好き」を大事にする投資術
田中: ここまで、小林さんの、美学、芸術学の研究者というの側面でお話を頂きました。そこで今の本業としては、投資家という言い方になるのでしょうか。未来の世代のための投資活動をされていると考えますと、茶人と呼ばれる堺の商人たちも、戦国武将の誰に投資するかというようなことを意識していたと思います。そのような観点から、少し感想を聞かせていただければと思います。
小林: もしかすると、投資の考えとして誤っていると言われるかもしれませんが、私は投資について、「儲かるものを探して、それにお金を投じることである」と捉えると、ちょっと世知辛い仕事に感じてしまうのです。そうではなくて、「好きなものを発見して、好きなものにもっと伸びてもらったら、もっと楽しい世界になるのではないか。だから、その好きなもの(会社)に投資して応援する」という仕事だと捉えると、有機的だし、楽しい仕事だなと感じられます。投資というのは、ともすると資本主義の権化みたいな営みで、儲かるのか、儲からないのか、みたいな仕事をずっとやっている人だというように見られがちなのです。投資を単に「儲かるか、儲からないか」の軸だけで捉えてしまうと、非常に世知辛いというか、何か心を貧困化させるような感じがしてしまうのです。
投資家というと、恰も金銭的に欲深い人が来たというように見られがちですが、この本を読んで思ったのは、茶人も、誰が次に出世するかという側面だけではなく、この武将は面白いなとか、もっと関わりたい、この人が日本を牛耳ったり、日本をコントロールしていったら面白い世界ができるのではないかとか、そういう人として魅力を感じたからこそ投資した部分があったのではないかと思います。もっと言えば、好きだから賭けたという要素もあったのではないかと思っています。勝ち馬に乗ろうという要素がゼロとは言えないけれど、それだけで決めたわけではないのではないかという気もしています。私が投資先を考えるときも、もちろんリターンが出るかどうかというのは投資家として必ず考えますが、経済的観点に加えて、こういう会社が世の中で大きくなったら、世の中にとってとても良いことなのではないか、という会社を選んで投資しています。「世の中にとってあってもなくてもよいけれどすごく儲かるもの」ではなくて、「すごく世の中のためになるものが大きくなった結果、我々もリターンを一緒に得られる」という所に時間とお金を投じたいのです。そういう意味では、「好き」を発見する行為にとても近いと感じています。
田中: 以前、世の中に役に立つものが、結局はそれを使う人たちが多くなるのだから、その産業が利益を得るという話をどこかで読んだことがあります。リターンということで言えば、消費者が増えるとか市場が自然に増えてくるものだから、結果としてリターンが出てくるということですし、これは儲かるからということではなくて、世の中を良くするために投資をして、その結果、儲かるということですね。これに関連したところで、津田宗及という人がいますが、この人は信長が大好きだったのです。秀吉の時代になって、なぜ宗及、利休と茶人が2人いる中で、利休が残ったかというと、そこには色々な理由があるのですが、その一つは、利休は利休なりに、秀吉に伸びて欲しいって思っていたということがあります。しかし、宗及は、秀吉と信長を比べて、こいつは上様とは違うなと気持ちを残していたのではないかと感じるのです。これは、今小林さんがおっしゃった、この人が好きだったということですね。
小林: 投資家にも、一つは好きを発見するという営みと、好きを広めるという営みあります。好きなものが広がってくることで、我々は投資した会社が大きくなってリターンの源泉となるわけです。おそらく、茶人たちも、この武将がすごく好きだとか面白いと思ったときに、もっと世に出て欲しい、広めたいという気持ちがあったのではないでしょうか。
お茶がオタク文化から芸術になった理由とは
田中: 今でこそ、茶道具は美術館で展示されて、芸術品、文化財と認識されていますが、親しい現代美術の作家から、茶人って元祖オタクでしょと言われたことがあります。はっきりと色合いも分からないし、アメリカ人だったら茶入なんて個別認識できるのかと思うくらい、パターンではなくてノイズみたいなものだけが並んでいるような中から選ぶという、非常に少数の人にしか分からないような世界を追求しているというのはオタク的な、マニアな世界なわけです。アニメに詳しいと周囲に引かれるけれども、この茶入は初花で、徳川家康が持っていたものだというと、偉い人だって言われます。一体何が違うのかというと、それぞれの世界の周りで、どれだけその世界を理解している人がいるのかという違いではないかと思います。
ある意味でオタク的な存在だったものが、どうやって広がっていったのかを考えてみると、この人がやっているのは、すごいことなのだろうと思わせるインパクトがあったのです。今でも、例えば流行が生まれるときに、最初に先進的なものを受けとめる人の割合は3%とかその程度で、だんだん流行りだすことでそれに乗っかってくる人が増えてくる。お茶だって、最初のうちは、これは本当にいいよねと思っている人は少なかったし、そのサークルだけであれば、文化にはならなかったと思います。信長や秀吉という権力者に認められたことで、この人がよいと言ったものなら、よいものなのだろうということで、お茶や茶道具への関心が広がっていったのだと思います。最初から権力と結びついていたわけではなく、むしろ、正直に言えばオタクで終わっていたかもしれないものが、どうして今伝統と言われるまでになったのかということを考えています。
小林: そういう社会学的文脈がありつつ、とはいえ、美的に優れた要素もおそらくあったのだと思います。ごくありふれた段ボールだとかを、誰かが良いといったから良いというような、現代アート的な文脈に偏ったものではなく、実際に、茶器自体の魔力というか、吸引力みたいなものもあったのでしょう。
田中: 私は、その両方の側面があって、片方だけで説明するには無理があるだろうと考えています。
小林: これはまた面白くて奥深い世界ですね。これまで話したような「好き」ということについて、日本という国では、あまり表立って公の場で言ってはいけない社会になっていると感じます。私が尊敬するレオス・キャピタルワークスの藤野さんという投資家は、本当はいろんなことをもっと好き嫌いで判断してよいのに、好き嫌いを隠して生きるようになった結果、我慢することが多くなったということを言っています。
今、ウェルビーイングだとか、より良く生きるというようなことが言われていますが、私は、好きなことに率先して近づこうとすることをもっと意識した方がよいのではないかと思っています。それは、働く先をどう探すかということについても同じです。以前、大学生に、「私はどの会社に行くのが正解ですか?」と質問されたことがあるのですが、「君が行きたいところに行けばよいのではないか、行きたいとこに行けないことが強いて言うなら不正解だと思うよ」と伝えたところ、私がどこに行きたいかというものはないので、正解を教えてください、というような質問をされて、非常に違和感を覚えました。投資は「好き」を見つけることという話をしましたが、「好き」を発見するというのは、実は難しいことなのではないかとその時に感じたのです。
今の世の中、ついつい色々なことに正解を求めがちで、私も実は最初にお茶を体験したときに、これをやって良いのですか、あれは間違いですか、このやり方で正しいですかというような、正解は何かということばかり聞いたのです。その時に、相手をもてなす気持ちと、もてなしてくれたことに対して感謝するという気持ちがあれば、基本的に、あとは何とかなりますということをおっしゃって頂いて、そんなにおおらかなことだったのかと感じたことをよく覚えています。お茶というものが、相手のことが好きで、入れてくれた人に感謝するということなら、私はお茶を好きだと言えるのですが、何か正解があって、そこから外れると無作法で間違いで失格だというように杓子定規に捉えてしまうと、つまらないものに感じてしまうでしょう。何か世の中のいろんなことに対して、「正解はどれですか」的な質問をしてしまっていることにその時気が付いて、反省しました。好きを見つける、相手を大事に思うという、ものすごく基本的なことを思い出す機会で、非常に思い出深い体験でした。
お茶も人間関係も、一歩踏み込んで距離を縮めることが大事
田中: 利休ぐらいの時代ですと、茶会を評価するときに、「たぎりたる」という言葉があります。これは、私の父も注目していた言葉なのですが、今の文脈で言うと、自分自身が気に入っているということを、茶の湯をやるときにどれだけ出しているのか、ということだと思っています。例えば茶器を用意するときに、世の中で名物と言われる茶器など国宝と重要文化財を出しておけば間違いはないでしょうというのは一つのやり方です。しかし、もう一つのやり方として、今日は音楽をやっている小林さんがいらしゃるから、これは名物でもなんでもないけれど、この茶器を気に入ってくれるだろうかとか、面白いと思ってくれるだろうかとか、そういう配慮をするという方法があります。正解を求めるやり方からすれば、リスクを取ることになりますが、自分が好きだと思うことについて、どれだけ踏み込んでいるのか、踏み込んでいないのかというところを見ているのです。
小林: 確かに、世界の名器を持っていれば、ずっとそればかりを使っていれば良いかというと、実はそれは相手のことを全く慮っていない。本来の精神からすると、一番遠いことなのかもしれません。
田中: そこで踏み込むか踏み込まないかというのは、人間関係にかかわってくると思います。人との関係について、この程度の距離感でよいと思えば、間違っていない、リスクのない答えを選んでおけばよいとなります。しかし、もう少し近づきたいとか、好きだと思って貰いたいと考える人は、その距離感を縮めたいと思うわけです。
小林: 人との距離は、その人が何を好きかということを知って、それに共感するときにぐっと近づくと思います。共感するものがあれば、お互いにより人間味を感じられるでしょう。
田中: 私は、そういうことを大切にしなくてはいけないと思うのです。しかし、それにはリスクはあるわけです。これ好きだよねと言った時に、オタクは気持ち悪いと言われる可能性だってあるわけです。そこは、気持ち悪いと思うかもしれないけれども、その人が、ある程度リスクを冒してでも、近づこうとしてくれたのだということを認めることが大事なのだと思います。
小林: 面白いですね。「好き」の発見というのは、日本をもっと生きやすい国にするために大事にしたいと思っていたことなので、それを考える非常に良いきっかけを頂きました。予定調和が正解ではなくて、お互いにリスクをとって、両方の「好き」が合った時というのが特別な瞬間といえるのかもしれません。
田中: いまは、色々なことに気を使って、批判をされないようにと行動してしまうことが多いように思います。それだと予め相手との間に壁を作って、いや壁を作ってしまったら相手が見えなくなってしまいますから、相手は見えるけれどもそれ以上お互いに近づけない垣根を作ってしまっていることが、「日本をもっと生きやすい国にする」とおっしゃった形で、問題にされていることにつながっているかと思います。
お茶人を、「数寄者」と呼ぶこともありますが、「数寄」は、「好き」から由来しています。「好き」を大切にしあうことは、自分が楽しいからというだけでなく、人と人との間の垣根を乗り越えていくためも大切なことで、現代にこそ意味がある、と再認識させられたように思います。本日は、どうもありがとうございました。