今回の対談では、ウェアラブル加速度センサーから人の行動やHappinessに関する様々な法則を研究されている矢野和男氏をお迎えしました。矢野氏は、昨年『予測不能の時代』というタイトルの本を刊行されました。今まさにタイトルそのままの時代になったことを踏まえ、対談は、戦国時代も未来は予測不能であったことから始め、幸せの追求と茶会の在り方との関係、予測不能な時代にこそ必要な「道」という伝統の知恵が最新の科学的知見からどのように見直されるべきなのかなどについて展開されます。本対談は、前編、後編の2篇に分けてお届けします。
矢野氏プロフィール
1959年、山形県酒田市生まれ。1984年、早稲田大学大学院で修士課程を修了し日立製作所に入社。同社の中央研究所にて半導体研究に携わり、1993年、単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功する。同年、博士号(工学)を取得。2004年から、世界に先駆けて人や社会のビッグデータ収集・活用の研究に着手。著書に『データの見えざる手』(2014年)、『予測不能の時代』(2021年)。論文被引用件数は4,500件にのぼり、特許出願は350件を超える。東京工業大学 情報理工学院 特定教授。
幸せ体験と茶会、「道」
田中:矢野様には、「道」の文化の一環として茶道にも関心を持っていただいており、最近では、「予測不能の時代」という本も出版されました。その中で、幸せを重視するということが書かれており、茶道もどのように幸せに貢献するか見直さないといけないと感じました。また、タイトルにもある通り、未来は予測不能であるということを現代人は、つい忘れがちです。今回、私が書いた「お茶と権力」という本に関連させて言えば、戦国時代は、未来が予測不能という事が、デファクトスタンダードであったのでしょう。その時代の人々の生き方が魅力的に映るのは、そういう点もあると考えています。まずは、戦国時代のあたりから、お話を始めさせていただければと思います。
矢野:私は戦国時代の武将や庶民の気持ちには、まったくなれないのです。おそらく不安定な時代ですよね。子どもは多く、生まれてこない子供も多くて、大人になっても、様々な時代の変化の中で、そういう制約の中で生きた方々だからこそ、そういった変化に対応できるようになったのかなと想像はしています。
逆に先生がおっしゃったように、100年くらいの学問が、日本は西洋から学べというスタイルで、どこかに正解があり、あるいは進んでいるところがあって、そこから学んで、情報や知識を取り入れること、すでにある正解を活用する、使うということが良いことでした。最近になり、インターネットが普及し、ますます知識にアクセスできるようになってきたので、その通りにやればよいという風潮が、結構できてきたと思います。一方で、社会の変化は昔以上に激しくなっていて、また、その一方で、テクノロジーがもたらしている変化も早くなっている。我々には、未来は結局予測不能であるという現実が残っています。ますます、その比率が増えているかもれない。戦国時代とはまた違う意味で、ドライブが効いているのが気候変動、コロナであり、地政学的な変化です。ある意味、予測不能な変化に向き合うという意味では、戦国時代と同じような面も非常にあるのかなと思います。また、人間は本能的な面は変わらない。その上に、文化などが薄皮のように載っていて、進化の意味では、この数千年は変化しておらず、人類共通の、旧石器時代にDNAの変化が固まった社会生活を送っています。我々が、言語で表現できることは、もちろん、重要な役割を果たしていて、その背後には、人間や生物としての本能は地球を犯していて、様々な環境変化に対して、生理学、バイオケミカルにおいてのフィードバックの非常に重要な一つが、「幸せ」と言われるようになったのだと思います。
田中:不幸なことにわれわれは外的な尺度に当てはめて、あらゆるものを定義しようとする考え方に毒されてしまっています。矢野様がおっしゃる「幸せ」を、年収や財産の基準で考えてしまいがちですが、矢野様がおっしゃるのは、人間が感情的に感じるレベルで考えるべきという事ですね。
矢野:今我々が正に体験しているTV会議もそうですよね。ある面白い実験があります。あるTV番組を被験者に見せ、その後その被験者には、全くTVを見ていなかった他者に番組の内容を説明してもらいます。すると、被験者が説明をする時に現れる脳の波形が、他者の脳にも同様の波形として現れるというものです。それくらい我々は社会のつながりを通じて、脳だけではなく様々なバイオケミカルなフィードバックというのが、様々な形で繋がりあって生きているという訳です。
これこそが、幸せであれ不幸であれ、物理的な実態であり、誰一人否定できない、生物学的な現実です。
田中:そう言った、言語以外の側面で、人間の様々な行動が幸せ感も含めて伝播していくことを考えると、我々が茶会を実際に人と向き合って行う事も「幸せ」と大いに関係があると思います。私達が互いに向かい合って、同じものを食べ飲み、感じる中で「幸せ」とどう結びついていくのかという観点で、お話を伺えればと思います。
矢野:同じ空間を共有し、飲んだり食べたり様々な行動をすることは、実はそれを見ている人達の脳にも同様の波形が生じるでしょう。人と人との関係を創れる場になっていると想像します。
田中:先程のTVの体験が伝播するという話から思い出しました。茶席で素晴らしい茶道具に感動している人が道具を褒めるのを聞いているだけで、何となく満足感を感じてしまった経験があります。その茶道具のどこがよいのか当時の私にはわからなくても、直接その人が喜んでいることだけは、私も共有できたのだと思います。
矢野:我々は常に様々な感情を他人と共有していますよね。全く知らない人にあくびされると、無意識に影響を受けますし、感動、愛情など様々な感情を共有しています。例えば、モノを見て、“これ良いなあ”と思っている人の表情や振る舞いは、伝わってくるものだと思います。とりあえず最初は、何故そう思っているのかは別にしても、そんな体験を通じて、何故かの部分は深まってくる気がしますね。
田中:いい茶道具をみて心から喜んでいる人に接した体験を通じて、私も茶器の良さを分かるようになりたいと思いましたからね。それがモチベーションになるのでしょうね。茶席で恥をかきたくないと言う理由で、つい消極的になりがちですが、同じように感じられる人と茶席に参加できれば、たとえその人が気付いていて、自分がその良さに気付かずとも、自分は満足が得られると、矢野様のお話を聞いて思いました。
矢野:その様に共感や同調が起きる場もあれば、逆のケースのありますよね。これは論文で書いているースですが、ある企業の中で社員が立ち話をしている場面では、人数が増えるほど、動きが活発になり同調していきます。ところが会議室内の会議では、同じ人間でも同調しにくくなってしまう。という事実があります。つまり、良い場と良くない場があって、様々な要因、つまり生理学的な同調が、共感とか、信頼に関係しているのだと思います。ですからもしかすると、茶室や作法が、人とひととの関係を良い方向に進める知恵が込められているのではないかと想像します。
田中:茶室の広さに合わせて人数を制限する、また共通の話題を作るために床の間に軸を飾ること等もそう言った目的のための知恵なのかもしれません。ご著書の中では、良い幸せと悪い幸せを分けておられますが、もう少し詳しくご説明いただけますでしょうか?
矢野:企業の様々なデータを解析してみると、アンケート上は幸せと回答している人の中に2種類あります。実はこの調査では、コミュニケーションを取っている相手のデータもあるわけです。その中で、自分も周囲も幸せな人もいますが、自分だけ幸せで周囲はおしなべて幸せでない人もいます。これがつまり、良い幸せと悪い幸せです。これは社会の中で良く起きている事だと思います。例えば、悪い幸せの例えとして、悪人ではないものの、責任感から問題を一人で抱え込んでしまい、私の言う事を聞けばいい!逆らうな!と考えてしまう人も、実社会では多いと思います。企業の中にこの様な(悪い幸せ)な人の比率の人が増えれば、全体のクリエイティビティも低下してしまいますから、常にフラットに、お互い対等な意見が言い合えるような社会を作らないといけないと思います。
田中:つまり、経営学の組織論の文脈だと、ある種の心理的安全性が組織内で必要とされている、という議論に繋がるように感じました。
矢野:もう一つ別の文脈で言うと、最近、良く人的資本と言われるのですが、これには人的資本、人的資源、人的資産と色々言われますが、私は明確に区別しています。つまり人的資源は、周りに合わせて仕事ができる人、人に言われたことを守れる人、ヒューマンリソース。
人的資産は、ヒューマンアセット。仕事に当たり自分の目で自分の判断で仕事ができる人です。これは仕事の経験で培われていきますが、実際には積み上げた知識はまだ制約が多いと言えます。しかも、これだけ世の中の変化が激しいと、人的資産も休息に不良資産になってしまいます。
その次の人的資本ですが、自分のレンズを常に拡げたり高めたりして、あるいはそれが可能な様々な場に関わり、死ぬまでスキルを高め自己研鑽を続ける。常に花を開かせ成長させていく、いくつになっても人は成長できる・・・これこそが人的資本の考え方です。
最近良く「リスキリング」等とも言われますが、私はとんでもない話だと思います。新たなスキルを身に着けるだけでは不十分です。これは本来人的資本にしなくてはいけません。すなわち、常に自ら見直す人を作らなければいけない訳です。
常に自己研鑽し、自らの限界を広げる努力を死ぬまでやり続けるのは、実は日本人にとっては馴染み深い概念だと思っていて、人に勝つという意識ではなく自らを高める「道」だと思います。精神論っぽくなるので、最近はあまり言いませんが、日本文化の中にはまだまだ残っていると思うので、リスキリング等と浅いことを言わず、そういう事をもっと言った方が、本質的だと思います。
田中:様々なデータで説明されると、自分たちが使っていた言葉が、きちんと意味を持っていたことに気付かされ、確証することができたと思います。世阿弥の言葉ですけど、「離見」とか「他見」と言いますが、舞台の演者も、自らを、一番後ろにいる観客の身になって演じている自分を見なければいけない。そうする事で自分を研鑽すると言う教えです。世阿弥はまた、誠の花という言い方もしており、先程おっしゃった資本こそが花なのだと思いました。
お茶の席の中ですと、昔の人々は、お茶席に招かれたら、招き返してあげるという相互的な関係を構築していました。これはつまりお互いの視点を交換する事であり、ある種のメタ認知ができる状況を創り上げていたのではないでしょうか。私は、仙堂という名前を名乗っていますが、日本文化の世界では、本名と別の名前を使って活動します。それには、普段の社会的な関係と自分を切り離す意味があります。例えば会社の中では部下でも、習い事の世界では先生の立場に逆転したりすることもあるでしょう。そんな時に、その時に置かれた立場を受け入れて行動することが、自分をいつもとは違った視点で客観的に見つめる機会になるのだと思います。ですから、「部下のくせに、なぜ俺に注意するんだ」と言ってしまう人間は、良い経営者にはなれないのかも知れません。例えば、こんな話も先程の矢野様の研究データを裏付けているのだと感じました。
矢野:伝統的な仕組みの中には、現代の様々な人間社会の普遍的な知恵を構築してきたのだと思います。その意味で、今と昔を関連付けながら考えるのは良いことだと思います。
田中:我々が議論する時にはデータが必要なので、つい一つの物差しで測られた結果を過大視してしまう傾向があるように思います。例えば座禅中の脳からはα波がでてきいるといったら、ちゃんと瞑想できているかをα波の数値で図る、というような装置も作られたかと思います。しかし、何かに還元してしまうのではなく、もう少し広いもの、つまり自分たちの体が幸せを感じているものを、自分自身が素直に受け止められるようになる。これが大切なのではないでしょうか。
矢野:私は、幸せな行為や体験は基本的には無限にあると思っています。一方で、人類の本能的なものとしての幸せを捉えると、ここ20年ほどの定量的な研究の結果明らかになったのは、前向きな精神的エネルギーを持っているのかと、良い関係が作れているのか、この2点が大切です。
置かれている社会的な状況はそれぞれ違いますから、常に前向きな精神的エネルギーを持ちつつその中でそれぞれの道を前に進んでいけば良いと思います。
田中:ベーシックな条件は前提として共有しつつ、個別のあなたにとっての幸せを追い求めるということでしょうか。
矢野:我々は全く同じ代謝経路、エネルギー変換回路、神経伝達回路を持っているので、ベーシックな条件は同じだと思います。
田中:状況が変化する中で、自分たちがどう対応するかについて、永遠に使える正解を持つという事ではなく、どんな状況でも対応できる自分を作っていく必要がある。それは多分、矢野様のご本の中で、易の様に、今日はこの方法、明日はこんな方法と、変化を作り出して、それを受け止められる自分・・・と言う事にも繋がると思いますが、そんな概念が自分達の中にあったという、伝統と言うと古く感じるかもしれませんが、自分たちが納得するためには必要なことだと示唆をいただいたような気がします。
*後編に続く